ストロマトライト

 

 帰宅や部活に向かう生徒たちで賑わう放課後の廊下。その人波に逆らうようにして、校舎の奥へと向かう少年の姿があった。
 青と黄で構成された尾羽を不機嫌そうに揺らす彼の手には、一枚の書類が握られている。それこそが、他の生徒たちとは正反対の方向に足を運ぶ羽目になった原因であった。
 本来なら、既に帰路についている筈だった。
 いつも通りに店の手伝いをしてからスタジオへ向かう予定を組んでいたが、玄関で新任教師に捕まってしまったのが運の尽き。
 生徒会室まで書類を持って行くように言われ、最初は断ろうとした。
 しかし、教師が手にしていた他の荷物を見て瞬時に諦めたのだった。
 両腕一杯に抱えたそれらを持って、ここから生徒会室にまで行くのは一苦労に違いない。一旦職員室に寄って荷物を置いたとしても、その分の時間をロスしてしまう。
 年若い教師にとって、あの生徒会番長宛の書類をずっと持ち歩くという心理的負担は決して軽くはないのだろう。
 軽くため息を吐き、荷物の最上部に置かれていた書類を受け取る。ほっとした顔で礼を告げる教師に背を向け、生徒会室へと向かったのが数分前。
 目的地に近付く度に、ヤスの足取りは重くなっていた。伴い、揺れ動いていた尾羽も力無くしな垂れる。
 生徒会室に辿り着く頃には、最初の勢いはとっくに失われていた。
 扉の前に立ち、何回か深呼吸をする。普段通りで居れば良いと理解しているが、今のヤスはそこまで準備をしなければならない状態だった。
 練習以外で双循に会うことが非常に気まずい。
 喧嘩をしたとか、あまりものゲスさに嫌悪感を抱いたとかではなかった。そんなものは今更過ぎて、ドン引きすることはあっても顔を合わせたくないとまでは思わないからだ。
 それらとは真逆に位置する感情のせいで落ち着きがなくなっている。そんな自分自身に戸惑いを覚えているのも、原因のひとつだった。
 書類だけ置いてさっさと帰宅すると心に決め、おざなりにノックをする。応えを待たずにドアノブに手を伸ばすと、それは何の抵抗もなく開いた。きっと、書類が届けられる予定があるから鍵を掛けていないのだろう。

「双循、これお前に渡せって──」

 扉を開けると同時に、生徒会番長の椅子に座っているであろう双循に声を掛けた。
 いつもなら「ワシの為にご苦労じゃったのう」程度の言葉を投げてきそうなものなのに、これまた一切の返答がない。無言が続くのは少々居心地が悪かった。

「双循?」

 訝しみながら近寄ってみると、定期的な呼吸音だけが耳に届いた。よくよく見てみると、双循は手にペンを持ったまま頬杖をつき瞼を閉じている。
 どうやら、作業中に寝落ちしたらしい。
 滅多にない光景に肩の力が抜けた。このまま机の上にでも書類を置いておけば、認識されずに用を終わらせる事が出来る。
 そのまま帰れば良いのだと理解しているが、ヤスの足は根が生えたかのように一歩も動かなかった。視線も寝顔に固定され、外すことが出来ないでいる。
 頬に落ちる睫毛の影が思っていたより長いことに気付き、とくりと心臓が跳ねた。
 普段の言動が言動な為にあまり意識する機会はないが、整った容貌の男だとは認識していた。
 癖のある長い金髪に、同じ色をした豊かな尻尾。羨む程に高い身長やそれに見合った筋肉。
 双循を形成するパーツは、世のミューモンを魅了するには充分な代物だ。
 真強敵の中にも、本気で彼を慕う者や自ら下僕になることを希望する輩が居るのは知っている。だが、こんな無防備な姿を見れる者はメンバーの中でも自分くらいだろう。
 己が唯一の存在であることに、ほんの少しだけ気持ちが浮ついた。
 つと、あの時はちゃんと見れなかったな、と考える。
 数日前、ヤスは初めて双循の部屋に泊まっていた。
 同じベッドの中で夜を越えたが、双循は早起きに慣れたヤスよりも先に起きていた為にその寝顔を見ることは叶わなかったのだ。おまけに、前夜も疲労困憊によりいつの間にか眠ってしまっていたので寝入りも知らないままでいる。
 当夜の記憶に引き摺られるようにして、最中の切羽詰まったような表情や色に塗れた視線、触れられた手の熱さも呼び起こされた。
 途端、ぞくりとした感覚が背を走り抜ける。
 双循の腕に抱かれた日に覚えた、甘く艷やかな官能。
 振り払う為に勢いよく頭を振るが、一度蘇ってしまったそれは簡単に消せるものではなかった。
 これは、欲だ。
 体を重ねるまでは知らなかった強い衝動に、身の置き場を失う。
 ヤスにとって、性欲とは時折発散させれば良いだけの生理的な欲求でしかなかった。双循との関係を深めたとしても、そこに変化は起きないだろうと高を括っていたのだ。
 だが、そうはならなかった。
 一度覚えてしまった熱は冷めることを知らず、ふとした瞬間に思い出しては燻り続けている。意識した途端にこうなると分かっていたから、ヤスは双循とふたりきりになりたくなかったのだ。
 触れたい。触れられたい。
 眠っているのならば、髪の先くらいなら気取られずに済むのではないだろうか。リアクションが返ってくることはなくとも、一時的に欲求を満たせるのではないか。
 今なら、もうひとつの理由にも勘付かれる心配はない。
 止めどなく溢れる情動に突き動かされ無意識に手を伸ばそうとしたその時、カタン、という軽い音が室内に響いた。
 尾羽がぶわりと逆立ち、全身に力が籠もる。手にしたままの書類は皺が入ってしまっただろうが、瞬時に気にする余裕は無かった。
 誰かが訪ねてきたのかと考え扉を見遣るが、開かれる気配は全くない。では音の出所はどこなのかと周囲を見渡した際、双循の手が何も握っていないことに気がついた。
 先程の音は、力の入っていない指からペンが抜け床に落ちたものだったのだ。くだらない原因に、無意識に詰めてた息を吐き体の力を抜いた。
 強制的に意識が切り替わったからか、先程までの欲は既に身を潜めている。
 ヤスはペンを拾い上げると、渡す予定の書類と纏めて机に置いた。一瞬だけメモを残すべきかと考えたが、自分が居た痕跡を残したくなかったので止めておくことにした。
 双循が起きてしまう前に離れようと踵を返す。予定より遅れてしまったが、走って帰れば多少の手伝いをする時間はあるだろう。
 しかし、それが叶うことはなかった。
 背後から伸びてきた見慣れた白い袖が、ヤスの腰を抱いている。そのまま引っ張られ、バランスを崩した体は双循の膝に横抱きの状態で座り込む形となった。
 突然の行動に目を白黒させていると、先程まで閉じていた筈のエメラルドがヤスを真っ直ぐに捉える。

「……まさか見とるだけとはのう」
「お前、起きて……!?」

 気付かれていたことに羞恥が募り、じたばたと暴れるが不安定な体勢では思うように動けない。
 そもそも、この狡猾な男が誰が来るとも知れない場所で居眠りをしていることがおかしかったのだ。

「寝たフリかよ……」
「勝手にそう思い込んだだけじゃろ」
「声掛けても返事しねえなら、寝てるって思うだろうが!」
「ヤス」

 突如、真剣な声音で名を呼ばれる。思い掛けない変化に、続けようとしていた文句を思わず飲み込んでしまった。

「おどれ、あの日からワシと顔を合わせるのを避けとるじゃろ。練習後もいつも以上にさっさと帰りよって」
「それは」
「……嫌だったんか?」
「違うっ!」

 食い気味に否定する。
 嫌な訳がなかった。あの夜の行為には多少の躊躇いや痛みなどを覚えたりもしたが、何よりも勝っていたのは愛しさと喜びだ。
 顔を合わせられなかったのは自身の問題でしかない。双循がそれに心を砕くなど、考えてもいなかったのだ。
 意を決し、欲望以外の理由を唇に乗せる。

「初めてだったから……どういう顔して会えば良いのか、分かんねえんだよ」

 双循から視線を逸らし、ぼそぼそと呟く。
 バンドの練習中ならば音楽に集中すれば良い。それに、スタジオにはハッチンやジョウも居るから双循だけに意識を向けないで済んでいた。
 だが、今のように差し向かうとなると話は別だ。練習中だからギリギリ挙動不審にならずに済んでいるのに、人目が無い場所で以前と同じように振る舞えるとは到底思えなかったのだ。
せめてふたりきり以外では意識しなくなるくらいに慣れてからと考えていたが、思っていた以上に時間がかかっていたらしい。
 頭上から聴こえた溜息に尾羽を震わせる。それをどう捉えたのか、双循の手がヤスの頭を撫でた。
 突然の甘やかな行動に、思わず双循の顔を見上げる。

「ワシとておどれと大して変わらんわい」
「そうじゅ……っ」

 撫でていた手に後頭部を掴まれ、そのまま覆い被さってきた狛犬に口を塞がれた。名を呼ぼうとして開いていた唇に侵入してきた舌が、己のものを絡め取る。

「んん……っ。ん、んぅ……ッ」

 口内で遊びまわる恋人の一部に、治まっていた筈の熱がぶり返した。
 迎え撃つように、自ら舌を押し付ける。すると、態とらしく離れようとした為にヤスは双循の頭に手を伸ばした。  
 互いの頭を掴み合う形になりながら、逃さないとでも言うかのように強く引き寄せる。
 それが解放されたのは、好い加減に呼吸が苦しくなってくる頃合いだった。
 どちらのものともつかぬ唾液に塗れた唇を拭いながら、じとりと双循を見遣る。

「突然なんだよ」
「恋人があんな熱烈な告白をしてきたんじゃけえ、応えん訳にはいかんじゃろう」
「こ……!? そんなつもりねえよ!」

 ただの事実を述べただけでいたが、双循にとっては愛の言葉も同義だと言う。よくよく考えれば否定しきれない部分もある気がしなくもないが、藪を突付くのは得策ではない。

「それに、好いた相手にはどんな時でも会いたいとも触れたいとも思うのは当然じゃ」

 にやりとした笑みを浮かべた双循が、机に置いていた書類を手にする。
 切り替えて仕事をするのかと思ったが、受け取り相手である筈の生徒会番長はそれに目を通すこともなく引き出しに仕舞い込んだ。確認すらしない様子に、疑念が首を擡げる。

「お前まさか」

 今頃になって、玄関前で生徒会室に用事がある筈の教師と鉢合う不自然さに思い至る。
 次いで、別れ際に教師が見せた表情を思い出した。あれは双循に書類を渡さなければならないという重荷から解放されたものではなく、双循からの指令を完遂したことによる安堵だったのだ。
 新任教師も顎で使うとは、いつの間に弱味を握っていたのだろう。

「さぁて? なんのことかのう?」

 じとりとした目を向けると、飄々とした態度で肩を竦めていた。わざとらしい態度に微妙な苛立ちを覚える。
 だがその策略も恋人と二人きりになりたい為だと思うと、喧嘩をする気も抜けたのだった。
 壁に掛かった時計に視線を向け、スタジオに向かうまであと一時間程の時間があることを確認する。
 本来なら、さっさと帰って手伝いをする予定だった。母には「そのまま練習行っても大丈夫よ」とは言われていたが、少しでも手伝いたいという気持ちがあり補習がない日はなるたけ帰ろうと考えていたのだ。
 今日は補習も再テストも言われていない。だけど。

「……母ちゃんに直接練習行くって連絡してくる」

 双循の膝から降り、ポケットからスマホを取り出した。揃って練習に現れることにジョウとハッチンには疑問を抱かれるかもしれないが、きっと偶々タイミングが合っただけだと思われるに違いない。

「ここですればええじゃろ」
「熱いから冷ましたいんだよ」
「──ついでに、今日はワシの家に泊まると伝えておくんじゃな」

 椅子から立ち上がった双循に背後から抱き締められ、耳元で囁かれた。ついでとばかりに首筋を舐められた時には、ぞくぞくとした感覚が背筋を走る。
 不意打ちの行為に思わず肘打ちを喰らわせようとしたが、双循はそれを味わうことなく簡単に離れた。

「ウゼェこと言ってんじゃねぇよ」

 スマホを手にしたまま、生徒会室のドアを潜る。ドアを閉めたと同時に、その場で廊下にへたり込んだ。
 冷ましたかった筈の熱は一向に引く様子はなく、寧ろ悪化しているように思えた。
 双循に告げられた言葉が、劣情に茹だった脳内を支配する。

「……あれ、またヤるってことだよな……」

 それ以外の意図があるなら最悪である。
 このままでは、期待しているのか不安なのか、よく分からない感情を抱えたまま練習に向かうことになる。
 だが、それは今考えても詮無きことだ。下手に確信を持ってしまうと、間違いなく練習に支障が出てしまうだろう。
 後は野となれ山となれ。どうするかなんてものは、双循の部屋で考えればいい。
 先ずは母に連絡をしておこうと、登録してある自宅番号を呼び出したのだった。

 

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